オフィス鴻

多死社会と死生観

2025年08月24日

今年3月、編集人は死線を彷徨うような経験をしました。突然自宅玄関前で意識を失って転倒・頭部打撲により救急車で搬送されたのです。その数ヶ月前から時折酷いめまいや意識喪失していると感じており、その数時間・数日前の記憶が無くなっていることを経験していました。病院での検査結果は肺血栓による症状であったとの診断で、その後数ヶ月は血栓を溶かす治療薬を使っていました。実際に搬送された病院では数日間意識がなく集中治療室で過ごしていたそうで、その間はせん妄という実際には起こっていなかった事象について間違った記憶が刷り込まれることもあったと聞かされました。

病院の医師からは妻に人工呼吸器装着に関する許諾の連絡が入ったそうで、妻は編集人と事前に話していた通り「延命措置はしないでください。」とお願いしたそうですが、実際には医療行為を施してくださったそうです。正直意識が戻った直後は誤嚥防止用の器具が喉に挿入されており、意識朦朧状態でものすごくつらかった記憶が残っています。退院後は改めて妻と今後のことについて双方の考え方を話す機会を設けましたが、既にエンディングノートも作成してあり再確認する程度となりました。しかし生まれて初めて全く記憶のない期間が数日あったことで、新たな気付きがあったことも事実でした。

特に感じたことは最近は家族葬が増えていることを鑑みると、かつてのような葬儀は減少傾向にあることと社会構造の変化が進んでいることの2点でした。残念ながら未だに人間は自分の最期を意志を持って決めることができないという厳然とした事実であり、また人口構成からすれば出生数よりも死亡数が上回る社会になっていると言うことです。これはこれまで日本人の多くが当たり前に持っていた宗教的儀式が、一部の方にとっては葬儀は要らないという方向になってきたと感じられるのです。編集人もあとに残された家族に余分な迷惑はかけたくないとの思いを一層強くした出来事でした。